2008年03月06日
水戸徳川家
有名な黄門様のところですね。
水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。1606年(慶長11)9月23日、徳川家康の十一男である松平頼房が常陸国下妻10万石を与えられ家を興す。1636年(寛永13年)7月、徳川姓を賜姓される。
徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が25万石程度であったが、御三家の格式を気にして高直しをした結果、公称は38万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。また、将軍家宗家が「征夷大将軍」と現わすために三葉を表にした表葵御紋であるために、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であるので正式には御三家ではない説、紀州家の祖である頼宣は同母兄であるので、ある時期[1]まで紀州家の分家であると考られていた。
尾張家・紀州家から見ると、一段格下の家柄というのが世間一般の認識ではあるが、水戸家自体が関八州にあり、また治める常陸国は延喜式における大国かつ親王任国であること、下記の支系の中に高松藩12万石という徳川御連枝の中では破格の禄高を誇る家系があるなどの事情を考慮すると、上位とされる2家と実際には同等であるとの説も存在する。
水戸家当主は将軍の補佐役であるとされ、参勤交代せず江戸定府の例であった。御三家であっても水戸家からは将軍は出さない原則であった。なお、一橋徳川家の養子に入っていた九代藩主斉昭の子慶喜が十五代将軍となることによって江戸幕府最後の将軍を出すこととなったが、あくまで一橋家から将軍を出したのであって水戸家から将軍を出したわけではない。
水戸家の支系(御連枝)は、讃岐国高松藩の高松松平家、陸奥国守山藩の守山松平家、常陸国府中藩の府中松平家、常陸国宍戸藩の宍戸松平家の4家を数える。水戸徳川家の歴代当主は比較的短命・無子の者が少なく、江戸時代の後半には他家に養子に出した例が多い。尾張藩の徳川慶勝、会津藩の松平容保は水戸家から高須藩に養子に入った松平義和の系統である。
明治維新後は華族に列し、侯爵を授けられ、さらに公爵にのぼった。十三代当主圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。同財団は1977年水戸市の徳川光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館を開き、その保存・展示につとめている。
^ 1.徳川姓を賜姓される1636年(寛永13年)頃 2.生母養珠院の死去する1653年(承応2年)頃 3.徳川将軍家の直系が断絶する徳川家綱の死去する1680年(延宝8年)頃 など
(以上、ウィキペディアより引用)
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